エゴン・シーレの年譜・作品


ここでは、シーレの年譜と絵画を一部掲載しています。
まだ彼の絵が見たいと思われる方は、以下のサイトをご覧ください。

  Egon Schiele Museum 宮下匠規さんのサイト
  ウィキペディアコモンズのサイト


1890年  鉄道官吏だった父アドルフと、母マリーの子として生まれる。
0歳     1883年生まれで当時7歳の長女エルヴィラ。 
        そして1886年生まれの4歳の次女、メラニー。


1893年  長女エルヴィラ、脳膜炎により他界
3歳


1894年  絵のモデルとしても時々登場する、妹のゲルトルートが誕生。
4歳     ゲルティの愛称で呼ばれた彼女は、20歳の頃にシーレの友人と結婚する。
        (腕を交差させる少女の裸体)などにモデルとして登場。


1896年  トゥルンの小学校に入学する。
6歳


1897年  クリムトを会長とした、ウィーン分離派が結成される。
7歳     しかし1905年には、クリムトは分離派から脱退することとなる。



1901年  トゥルン北方にある、クレムスの上級学校に進む。
11歳


1902年  父アドルフが梅毒の進行により退職。一家はクロスターノイブルクに転居。
12歳    シーレはその地のレアールギムナジウムという学校に進学する。


1904年  12月31日、父アドルフが梅毒の進行によって他界。
14歳    同時に、叔父で名づけ親である、のレオポルド・ツィハチェックが後見人となる。


1905年  当時の学校の美術教師ルートヴィッヒ・シュトラオホの指導のもと、
15歳    風景画や自画像などの作品を多く描き始める。シーレは、この教師自らの
        アトリエにも招かれるなど個人的な手ほどきを受けていた。


1906年  ツィハチェックは他の技術専門学校に行くようすすめたが母マリーの後押しを受け、
16歳    ウィーン美術アカデミーに入学。後の独裁者、アドルフ・ヒトラーもこの年に
        シーレと同じ入学試験を受けている。


1907年  ウィーンにアトリエを構える。このときにグスタフ・クリムトと初めて出会うこととなる。
17歳





1908年  クリムトに紹介され、ウィーン工房のデザインの仕事をする。
18歳 




1909年  ウィーン美術アカデミーを退学し、共にアカデミーを去った友人たちと
19歳   「新芸術家集団」を結成する。




1910年  労働者層の少女らをモデルとした裸体画や、鋭い描写の自画像を描き始める。
20歳




1911年  母の故郷クルマウに移り、クリムトからゆずられたモデル、ヴァリー・ノイツィルとの
21歳    同居生活を始める。  しかし、シーレの描く裸体画が原因となり、
        村人に追い出されるかたちとなり、数ヶ月でウィーンへ舞い戻る。




1912年  4月、「不道徳」と「未成年者誘拐」の容疑で囚われ、24日間の獄中生活を送る。
22歳    (ノイレングバッハ事件)
        このときシーレは、戒めとして目の前で絵を焼かれることとなる。
        釈放された後はウィーンに戻り、ヒーツィンガー通りというところにアトリエを構える。




1913年  ウィーンの分離派展に参加する。
23歳




1914年  シーレのアトリエの向かいに住む、ハルムス家の姉妹アデーレとエディットの存在を
24歳    知り、妹のエディットに恋心を抱くようになる。 この年に第一次世界大戦が勃発。
        この年、妹のゲルティはシーレの友人であり画家のアントン・ペシュカと結婚する。




1915年  ヴァリーと別れ、エディットと結婚する。そしてその4日後、軍からの召集をにより、
25歳    プラハで新兵の訓練を受ける。
        年末になると、ロシア軍の捕虜護送部隊に編入される。





1916年  ベルリン分離派展に「浮遊」「死と乙女」「母親と二人の子供」などを出品する。
26歳    ロシア軍の将校捕虜収容所勤務を命ぜられ、そこでの上官の理解を得た後、
        軍務のかたわら絵を描くことが許可される。




1917年  ウィーンに戻り、陸軍物資調達事務所に転職。
27歳   




1918年  この年の2月6日、グスタフ・クリムト 脳卒中により他界。
28歳    第49回ウィーン分離派展に参加。シーレの作品はメインルームに展示され、
        画家としての地位を手に入れ成功をおさめる。

しかしこの年の春から、スペイン風邪が大流行する。9月に襲来したその第二波により、
妊娠6カ月であった妻のエディットが10月28日に他界。
そのエディットの看病をしていたシーレも、その3日後の10月31日、
同じ病のために妻の後を追うように他界する。オーバー・ザンクト・ファイト墓地に埋葬された。
そしてこの年、第一次世界大戦も終結する。






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